いずれ悔しさも連続性を失う

現実というのは、「確信していること」と言いました。
確信しているもの以外は存在しません。

例えていうなら、
今、あなたはこのメールをスマートフォンかPCの画面から見ていると思います。

この、スマートフォンとPCが、瞬きした瞬間になくなったとしたら、どう思いますか?
「あれ?ここにあったはずなのに・・・」
って思いますよね?

その後、もう一度瞬きしたら現れたとする。
さらにもう一度瞬きしたら、また消える。

これを繰り返されたら、存在してると思えますか?

目をこすったり、凝らしたりして
「これ、本当にここにあるのか?」
って疑いますよね。


つまり存在っていうのは、時間的に連続してくれないと、存在していると言えないんです。

連続性を見て、確信を得たものだけが、存在しているんです。


僕のお爺さんは、10年ほど前、96歳で天寿を全うしました。
10年前に連続性を失ったと同時に、存在を消しました。

で、亡くなった時は、やたら悲しかったんですが、その悲しさもあいまいになり、つまり、連続性を失って、もう、当時の悲しさは存在しません。

いずれ、僕も連続性を失うでしょうね。


でも、錯覚してしまいます。

命がず~~っと連続性を失わない気がしてしまうんです。
明日、連続性が失われない保証はないんですが。


で、ここからが面白いんですが、もしかしたら明日連続性が途切れる可能性があるということは、過去と、現在と、未来、つまり時間は、連続性をもっていないんだと思います。

本当は、写真のパラパラ動画みたいに、一瞬一瞬、途切れている。
ただ、記憶があるだけで、連続している錯覚をしているんじゃないかと。


だとすると、昨日の自分と今日の自分に、何ほどの繋がりがあるのか?

命という尊いものが連続性を持っていないくらいなんですから、思い込みなんぞに、連続性を持たせる必要があるのか?

昨日の自分なんぞを、本当に、今日も連続させる必要があるのか?
何者になるのも、自由に選んでいいってことですよね。


いずれ、苦しさも、悲しさも、悔しさも、わずらわしさも、忙しさも、連続性を失うんですよ
ね。