疑いようもない世界の話

早いもので、このメールマガジンも第10号になりました。
前回、vo.8になっていたことをここでお詫びいたしますm(__)m

さて、第10号ということで、今日はとっておきの話をしようと思いますが、そう上手くいくでしょうか?
いささか不安を覚えました。


では、僕らの疑いえない世界の話をします。


まず、世界には疑える部分が大多数であることを覚えておいてください。

例えば、目で見ているものの形は、本当にその形なのか?
目が嘘をついているだけではないのか?

いくらでも疑えますよね。


耳で聞こえる音は、誰にでも聞こえているのか?

この黒は、他の人にも黒なのか?

あそこに立っている人は、自分以外にも見えるのか?(怖!)

地球は本当にまるいのか?

宇宙は本当にあるのか?

疑い出したらキリがないんです。


でも、たった一つ疑えないものがあります。
それは、自分の心に浮かんでしまった、立像自体です。


例えば、目から知覚してしまったものは疑えないと言いました。
これは、視覚情報として知覚され、心に立像してしまった瞬間に、どうしても疑えません。

存在を疑うことができても、知覚してしまった立像自体は、もはや疑う余地がない。

 

音が聞こえてしまった。

この部屋暑いなあ。

辛!

など、
これらの知覚してしまったものは、疑えないんです。

思い出や、妄想など、心に立像するものは、手を加えることができるのに対し、知覚だけは、絶対に疑うことができないんです。
意志の力ではどうすることもできない。

これのことを、フッサールは「知覚直観」と言っています。


そして、その知覚には、ある意味が付いています。

これは、後天的に手に入れたものですが、何を見ても、「これは〇〇である」と表現することができる。

「これはコップである。」

そう言う時、僕らは、円筒形でガラスで出来ていて、液体を注ぐ容器であることをイメージします。

そうやって、知覚には、一つひとつ、意味がくっついているんです。

こっちは操作可能で、フッサールはこの意味のことを「本質直観」と言っています。


僕らはこの、二つの直観で、世界を認識しています。

知覚は疑えないのに対し、本質は、人種によっても意味が違ったりしますよね。
しかしこの知覚は、本質から影響を受けていると言えます。

例えば、ここにコップがあったとして、コップを使うことが日常的な人と、コップを作った人では、持つ意味が違うのはお分かりいただけると思います。

もっと言うと、ガラスというものを知らない人に、ガラスのコップを渡してみる。
さらに意味が違うと思います。


知覚直観と本質直観は、相互に影響し合っていると言えるのではないでしょうか?

つまり、経験によって、本質はいくらでも変わるんじゃないかということです。