感覚だけ

僕らが何かを認識するとき、頼りにしているのは知覚です。
知覚とは、感覚情報の意味付けと思ってください。


目で見たものを、「赤い」と認識したり
手で触れたものを、「硬い」と認識したり、
耳で聞いたものを、「声」として認識したり、
これらは、感覚器官で電気信号に変えられ、脳で統合されて、〇〇であると意味付けされます。

面白い事に、感覚器官はあくまでも、刺激を電気信号に変えるだけ。
それが○○であるという、認識を担っていません。


それはいずれお話するとして、今日は感覚のお話。

僕らは、世界をそこに実在しているとして見ています。
この認識の仕方を「自然的態度」と言います。

知覚を頼りに、存在を確信しながら生きています。


で、さきほど、知覚とは感覚情報の意味付けであるといいました。

つまり、感覚情報なしには、何も意味を持たない。
世界が存在しないんです。


みんな、驚くべき能力を使いこなしているのに、それに気づいていません。

例えば、湯飲みがここにあります。

この湯飲み、僕が見ているのは、「きよし」というひらがなが書かれた面です。
上に飲み口が、楕円形に見えます。
向こう側と底は見えません。

であるにもかかわらず、向こう側と底が付いているものとして認識しています。

この机。
脚の部分が見えません。
でも、脚がついていることを、確信して疑いません。

これらもすべて、感覚情報と、記憶があるから、そうと認識できるわけです。


恐ろしいことに、感覚情報だけで完全に実在を確信しているものもあります。

それは、後頭部、背中、顔など、目で見てもいないのに確信している箇所です。
体は、感覚情報が頼りなんです。

メカニズムは、先ほど湯飲みの底と、机の脚と、なんら変わりません。
一生かかっても、自分の目で、顔、頭、背中などは見ることができません。

自分のことは、自分では分からないわけだ。


どれだけあやふやで、確証のない世界なんでしょうね。