「どうしても」それを成し遂げるために

たばこ依存症を克服したとき、僕は「どうしても」という強い動機を持っていました。
人が変化を起こす時、この強い動機が、まさに「どうしても」必要だと分かりました。

この話をするたびに、僕は、織田信長を思い出します。


彼は、尾張半国の領主に過ぎなかったころ、今川義元によって攻め滅ぼされそうになります。

そのとき、今川の臣下に下るという選択もあったはずなのですが、戦う道を選びました。

今川は25,000とも30,000とも言われる大軍勢を引き連れ、進軍してきます。

普通に考えれば、今川勢の大軍勢の前に、なす術もないはずです。
事実、今川義元も、戦う前から戦勝気分だったようです。

信長は考え抜きます。
「どうしても」勝つために、毎日、考えに考えていたようです。

家臣の中では今川に寝返る者も出始め、忠臣たちも焦り始めていました。


1560年5月19日午前3時。
丸根砦と鷲津砦が攻撃を受けたと報告を受け、信長は飛び起きます。

「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」
かの有名な敦盛を舞い、午前4時頃、小姓5騎を引き連れ、城を飛び出しました。

熱田神宮に集まった信長勢はたった2,500。
今川勢の10分の1ほどの手勢しかいません。


この時、信長は梁田正綱などの乱破を縦横に走らせ、逐一、義元の居場所や陣形を報告させました。

午後1時頃、梁田正綱から、今川勢は桶狭間において休息中である報告を受けた信長は、善照寺砦を500の軍勢に守らせ、2,000の軍勢を率いて桶狭間に向かいました。

この時、雹がふるほどの豪雨だったといいます。


午後2時、雨が止んだ直後、信長は全勢力を率いて義元の本陣を急襲。
雨で足音を消して近付き、一気に攻撃を仕掛けたわけです。

この時、義元の軍勢は縦に伸びきり、本陣を守るのは500騎ほどだったようです。


ほどなく勝敗は決し、東海一の弓取り・今川義元は、信長家臣・毛利新介によって討ち取られました。

寄せ集めだった今川勢は、大将が討ち取られたことにより霧散。
信長は生き残ると同時に、一躍、歴史の表舞台に躍り出ました。

まさに乾坤一擲、一度きりのチャンスをものにしたのです。


この大逆転劇は、今もって僕に様々なことを問いかけてくれます。

本気というのは、どういう状態のことなのか?
本当にもう、打つ手がないのか?
「どうしても」それを成し遂げたいのか?