死ぬことと見つけたり

ほんの150年前まで、日本には侍がいました。
いや、広義での侍は、いまもいると信じたい。
ですが、職業として、殿様に使える武士がいたんです。

侍と聞いて一番最初に思い出すのが、僕の場合は新渡戸稲造の「武士道」なんです。
次に、山本常朝の「葉隠

葉隠の中の
「武士道といふは、死ぬことと見つけたり
の一節は、あまりにも有名ですね。

彼が言いたかったのは、恐らく、「大儀」と「義」のために、命を差し出す覚悟があるということ。
それを持ち合わせているか?と問うこと。

ですが、今の時代にこの言葉を、どうとらえることができるでしょうか?

今もって、日本男児は侍であると信じたい僕から言わせると、
「どのような死を迎えるか?」
が問題であるということです。

今、僕らは「死」というものを、身近に感じていません。
いつ訪れるか分からない「死」を、リアルに感じることができないんです。
あるいは、気付かないように振る舞っているだけかもしれません。

誰にとっても「死」は、突然降りかかる事があります。
それは、自分のこともあるでしょうし、身近な誰かのことであるかもしれません。

そうなったときに、どういう態度でいられるか?
きたるべき「死」を、どのように受け入れるか?

それを考え抜くことで、後悔のない人生を送れるというものかな、と思っています。

今朝、子供に対して叱ったとする。
それが、自分のためなのか、相手のためなのか、簡単に誤魔化すこともできます。
でも、心はごまかせない。

「お父さんに怒られた。お父さんは、私のことが嫌いなのかもしれない」
これが、娘の最後の記憶になってしまったら、かわいそうでなりません。
これを与えたまま、僕が死んでしまったとしても、悔やまれるでしょう。

相手に誠意を尽くすというのは、この、「死」の覚悟がどうしても必要な気がします。

影響を与え、影響されるのが人間関係である以上、単に自分の気分だけで何かを与えることは出来ない気がします。

侍である以上、今、この時も、「死」は隣にあることを、忘れないように心がけたいものです。